たいようの映画の感想

素敵な映画の感想を、忘れてしまわないように。

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『ライブテープ』(松江哲明監督/09年)

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《東京国際映画祭2009「日本映画・ある視点部門」正式出品作品》

74分ワンシーンワンカットの衝撃的音楽映画!!
…という斬新さだけでは語れない、映画と音楽の奇跡


 
 この作品は、2009年の1月1日、ミュージシャン前野健太が吉祥寺の街を唄いながら練り歩く様子を捉えただけの映画だ。フォークギター片手に16曲、74分をかけて彼は武蔵野八幡宮から井の頭公園までをゆっくりと歩いた。その74分間、前野健太を追うカメラはたった一台で、カットは一切割られない。74分間の、ワンシーンワンカットの音楽映画。


  *  *  *  *  *


 まず、僕は前野健太というミュージシャンのことを良く知らない。セカンドアルバムを持っているが、あまり聴かないうちに実家の机の中で眠ってしまった。実は一緒にステージに立つことが多いおとぎ話というバンドのほうが好きなタイプだ。

 この映画を始めて知ったのは撮影現場に立ち会っていたらしい梅山さんのブログでだったのだが、その時「74分ワンシーンワンカット」でしかも音楽映画という衝撃的な作品の完成を楽しみに思ったのと同時に、酷く不安な気持ちにもなった。

 監督の知人のミュージシャンがただ唄う場面を74分映した「だけ」の映画が、本当に面白いのだろうか、と。それは74分長回しという斬新さに寄りかかっただけで、中身は監督の個人的な思い入れだけで製作されたいわばオナニーになっているのでないか。一般的には無名なそのミュージシャンを良く知っている人だけが楽しめる内輪ノリの映画になっているのではないか。
 企画と内容だけを知った頃、多くの人が劇場で楽しむには不向きな作品かもしれないと僕は思った。
 東京国際映画祭の「ある視点」部門に選ばれたのも作品自体の面白さではなく、その構成の珍しさ故のことだったのではないかと勘ぐっていた。

 だけど、僕はとんでもない勘違いをしていた。今思えば本当に恥ずかしくて格好悪くて情けないことだが、完全に『ライブテープ』を甘く見ていた。
 この映画の中でカメラは基本的に前野さんしか捉えないが、前野さん「だけ」を映した映画では全然なかった。もっとあらゆるものが映り込み、あらゆるものが錯綜して、あらゆる音が鳴っている、驚くべき映像体験をすることができる映画だった。
 監督の前作『あんにょん由美香』(09年)もとても個人的な題材を映画的に昇華して多くの人に届くものとして仕上げていたが、今作はそれをはるかに凌駕して多くの人に届く作品だ。音楽映画の歴史に残るであろう傑作で、フライヤーで使われていた「究極の音楽映画」というコピーは嘘偽り無く真実だ。

 映画に興味がある人も音楽に興味がある人も、これは観ないといけない作品なのだと思う。観賞後にはこの映画に対する好き嫌いや是非はあるかもしれないが、とにかくちゃんと自分で観て、74分の間に何が映り、何が起こり、そこから何を感じるのかをちゃんと自分で確認したほうがいい。


  *  *  *  *  *


 撮影は吉祥寺の街中で完全にゲリラで行われたそうで、そのため当然ながら様々な人や物が映りこんでいる。
 唄いながら歩く前野健太を不思議そうに眺める人や怪訝な顔で見つめる人、カメラに気付いて避ける人や平然とカメラの前を横切る自転車や車。興味本位でカメラに近づく子供とそれを止める母親。音声さんやマイクも見切れているし、人気の少ない通りの奥のほうでカメラと前野さんを伺う怪しいカップルの姿もちゃんと映っている。
 松江監督が前野さんに指示を出すところもそのまま使われてるし、監督が前野さんと並んで会話をするシーンでは、監督が不安そうにカメラのこちら側を何度も確認する表情(カンペを見ていたのだろうか?)も映っている。
 カメラマンが構図を探したり通行人が邪魔で前野さんの姿をちゃんと捉えられなくなった時の迷いや焦りも映像の動きにちゃんと映っている。
 前野さんの指先の冷えやカメラを向けられる恥ずかしさ、監督の指示に答えようとして追い込まれる姿、さらに率直な人柄さえも映っている。

 しかし、あらゆる事物が映っていること事態がすごいのではなく、それらの全てがちゃんと、間違いなく映画の一部として存在してしまっていることがすごいのだ。

 街中で一人で大声張り上げて熱唱する前野さんを「そんなに暴れて大丈夫か!?」と心配し、人ごみの中でうまく進めない時には「ちゃんと時間通りに井の頭公園に着かないと!!」と応援してしまう。街行く人たちの元旦を楽しむ笑顔やカメラを気にするしぐさに、いちいち心が和んだりハラハラしたりしてしまう。

 ワンカットだと分かっているからこそ生まれるこのスリリングさは、前野健太が好き/嫌いとか、知っている/知らないに関わらず、映画を観た誰もが共通して持つ感情のはずで、このスリルは単純にエンターテインメントとして通用する面白さだった。

 そして終盤、井の頭公園の入り口で松江監督はカメラの前に歩み出て前野さんに話しかける。この会話で観客は始めて前野健太に少しだけ歩み寄ることが出来る。前野さんを知らない人にとっては本当に未知の人間だった彼の暖かみに始めて触れるのだ。
 
 だから、ゴールである井の頭公園での歌「天気予報」がとんでもなく劇的に響く。この映画の中では前野さんがどんな想いで唄っているのかが分かる、唯一の歌だ。もちろんあんな数分の会話で前野さんの歌にかける情熱や信念のすべてを感じ取ることはできないけれど、でも、前野さんが振り絞る声が孕んだ希望や悲しみや切実さが、痛いほど届く。


  *  *  *  *  *


 この映画は僕たちに何も語りかけないし、何も教えてくれない。無名のミュージシャンがただ歌う様子を捉えただけの映画だ。
 でもこの映画には、前野さんが切実に唄う姿が映っている。松江監督が映画に向き合おうとしている姿が映っている。辛くても生きて行くしかない人生の悲哀や必死さや可笑しさが映っている。09年の元旦に二度と無い74分間を撮ったスタッフと偶然にも吉祥寺に居合わせたすべての人たちの74分間が映っている。

 誰が見てもちゃんと分かるように、この映画には映っている。
 そして「生きて行かなきゃねー!!」という前野さんの叫びによって、「生きて行く」という前野さんの決意と、あの日吉祥寺で「生きていた」すべての人たちの姿が鮮やかにフラッシュバックして混ざり合う。

 井の頭公園のあの夕日みたいに完璧で感動的な、ラストシーンだった。
 

  *  *  *  *  *


 上映後の質疑応答で、「なぜ元旦だったのか」という質問に松江監督はこんな風に答えた。

「元旦なら、誰でも覚えていると思ったからです。今年の1月4日のことは覚えていなくても、今年の元旦のことはみんな覚えていると思うんです」

 僕は今年の元旦、青森にいた。前野さんが唄い始めた午後三時頃、青森県立美術館で送迎バスを待っていた頃だと思う。あの日、僕は多分、ちゃんと生きていた。
 でもこの映画を見て、今の僕はちゃんと生きているだろうかと考えさせられた。
 
 12月の公開時には、あの元旦を一緒に過ごした彼女を連れてもう一度観に行こう。それから、音楽を諦めたあの友達も誘ってみよう。
 そして、「僕らも生きて行かなきゃね」って笑い合いたい。


『ライブテープ』公式サイト
☆12月26日より吉祥寺バウスシアター他にて公開


(製作:日本/東京国際映画祭・六本木TOHOシネマズにて鑑賞)

| 映画 ☆☆☆☆☆ | 03:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『仏陀再誕』(石山タカ明監督/09年)

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大スケール&超スペクタクル目白押しで満腹確実
普通の感覚では絶対観れない「ちょっとすごい」映画


 いまさら説明する必要はないのかもしれないが、この映画は「幸福の科学」という宗教団体が製作した映画であり、総裁である大川隆法氏が書いた同名のベストセラーを原作としている。
「幸福の科学」と言えば先日の衆院選で突如として大量の立候補者を擁立したことでも話題になった団体であるが、過去に5本も映画を制作しており、週間興行収入ランキングでトップに立ったこともあるほどの集客力を持っている。
 
 僕は特定の宗教は信仰していないが、なんと向かいに住むおばさんに招待券を頂いたために鑑賞することに。「幸福の科学」がどんな宗教なのかについては無知だったが、この映画を観る前に考えたことがある。
 それは、なぜこの宗教団体は映画を作るのか、ということ。

「幸福の科学」は日本中に数百万人も信者がいると言われ、その総裁が作った映画ならば信仰者は観て当然だ。全国の信仰者が劇場に足を運べば週間トップに立つほどの興行収入が手に入る。だが、利益がほしいのならば映画である必要はない。むしろ映画は制作費がかかる分だけハイリスクで効率も悪いし、宣伝費も莫大にかかる。「幸福の科学」は出版社も保有しているわけで、本一冊売った方がよっぽど利益率は高いはずだ。
 普通に考えれば映画を作る理由は「信仰心の普及」だが、土着宗教が染み付いた日本で特定宗教の匂いがプンプンする映画をわざわざ鑑賞する人がいるとは思えないし、この不景気の時代にそんなことを本気で考えているというのはちょっと信じ難い。

 疑問は実際にこの「すごい映画」を鑑賞してみて充分理解出来たのだが、まずは内容について触れておきたい。
 

  *  *  *  *  *
 

 普通の女子高生である小夜子が、尊敬していたジャーナリストが自殺してしまったことがきっかけで幽霊が見えるようになってしまうことから物語は始まる。そしていろいろな紆余曲折を経て、ある宗教団体に出会い、「人はどうすれば正しく生きることが出来るか」「本当に信じるべき信仰とはなにか」ということに気がつく。ざっくり言えばそんな感じだ。
 この映画が言わんとしていることは正真正銘に、「幸福の科学」の素晴らしさである。CMやポスターなどではエンタメ超大作かのように表現されているが、これは宗教団体が作った普通のエンタメ映画などでは全くなく、宗教団体が自分の団体を広くPRするために作られた映画である。どれほど「幸福の科学」が優れた宗教団体であるか、総裁の大川隆法がいかに偉大な人物であるかということが延々120分で語られる。
 だが映画の中では「幸福の科学」という言葉は一切登場しない。劇中で主人公を救う宗教団体「TSI」なるものが「幸福の科学」であることは明らかなのに、それは言わない。仏陀の生まれ変わりと自称する「TSI」のトップが大川隆法総裁を指していることも明らかなのに、それも言わない。絶対に言わない。
 映画はあくまでもフィクションの物語で、しかもとんでもなくスペクタクルな感動巨編なのである。
 
 この映画のすごいところはそこにある。
「団体のPR」という分かりやすいテーマを、大風呂敷を広げた大スケールの超スペクタクルな現代劇に突っ込んでしまったのだ。幽霊が見えるようになってしまった女子高生のお話から始まり、展開を追うごとに風呂敷はどんどん広がって行く。
 なんせ劇中で描かれる日本は無数のUFOに無差別攻撃を受け、さらに200メートルの超巨大津波に襲われるのである。しかもそれは悪の枢軸とも言える敵対宗教の教祖が超能力で起こしており、対する「TSI」のリーダーはさらに強力な霊力でそれらの攻撃を撃退するのだ。後半はさらにファンタジックな展開となり、「幽々☆白書」を彷彿させる霊力バトルで観客をハラハラさせてくれる。「TSI」のリーダーが持っていたあの光の剣は桑原和真の武器と同じ物に違いない。

 つまりこの映画は「エンタメ超大作」を偽った紛れも無い「PR映画」であり、宗教を信仰していない人たちに「幸福の科学」に興味を持ってもらう(あわよくば入信してもらう)と同時に現存の信仰者たちには信仰をさらに浸透させることを目的に作られたものである。

 ここで冒頭の「なぜこの団体は映画を作るのか?」という疑問に戻るが、「幸福の科学」は今の時代の日本で、本当に映画による信仰の普及を計ろうとしているのだ。しかも本当の本気に大真面目でやっている。

 宗教に興味のなかった主人公・小夜子が徐々に「TSI」の素晴らしさに目覚めて行く様子は、同じように若い観客に「幸福の科学」への信仰に目覚めてほしいという制作者たちの願いが痛いほど感じられる。そして小夜子の恋人であり「TSI」の幹部である好青年が言う「宗教なんて気持ち悪いって思うだろ…。でも、俺も最初はそう思っていたんだ」なんていう台詞は、数十年前から変わらない宗教勧誘の常套句だ。

 しかしあからさまな「PR映画」であれば信仰者しか観に来ないし、それじゃ高い金をかけてわざわざ映画を制作する意味がない。だから表向きは「エンタメ超大作」と語れるために様々なスペクタクルを用意し、その中で無知な観客がさりげなく信仰に目覚めるように仕向け、かつ現存の信仰者にも満足してもらう内容に詰め込んだ。さらに大人たちのために親子愛を、若年層のためにラブロマンスを、子供のために分かりやすい笑いとバトルアクションをも盛り込んだ。
 その結果が、普通の映画では絶対に観られないカオス感と、観賞後の「なんかもうお腹いっぱい」感を生み出している。


  *  *  *  *  *


 例えば内容や制作者の意図を省いて、単純にアニメーション映画として捉えたとしても、とても大人が満足出来る作品とは言い難い。時代遅れの台詞回しとギャグが終始鼻につくし、最先端と謳っていたVFXは主張が強すぎて全然最先端じゃない。本当の最先端はVFXやCGだと気付かないほどに巧妙なものだが、この映画は自慢気に「最先端のVFXはここで使ってますよ!!」と声高に主張してしまっている。これでは本末転倒だ。
 『クレヨンしんちゃん』を初めとして家族全員が楽しめる映画が数多く製作されている映画界で、この出来で興行収入トップを狙うというのはあまりにも頂けない。本来の目的である「信仰の普及」に効果的でかつエンターテインメントな映画を作ることが出来るだけの資金力と人脈は持っているはずなのに、この程度の作品を全国公開してしまう部分に、この団体の危うさがはっきりと表れているのではないだろうか。

 ちなみに、ところどころで「TSI」の理念が語られるシーンがあるのだが、そこで語られる「人がより良く生きる方法」は決して突飛な物ではなく、すんなりと多くの人の心に届く分かりやすいものだ(例えば「本当の幸せは心の平和によってもたらされる」など)。 
 大川総裁は仏陀の再来を自称するくらいなので、「幸福の科学」はきっと仏教をベースにしているのだろう。だとしたら土着宗教として仏教を信仰している人が多い日本人には馴染みが深いものであり、偏屈な感情を捨てて素直な気持ちで鑑賞すればある程度心に沁みる教訓は得られるだろうし、天国と地獄・転生輪廻など仏教に関する一定の理解を進める手助けにもなるかもしれない(あくまでも「かも」です)。

 
  *  *  *  *  *


 僕自体は完全に無宗教だし、宗教を信仰することを悪いとは全然思わない。むしろそれで本人が幸福を感じられたり、心の安住を得られるのなら進んでやるべきだと思う。実際に、このチケットをプレゼントしてくれた近所のおばさんもすごく感じがいい人だ。
 ただ、もしもこの映画で描かれていた「TIS」のリーダー=大川隆法総裁であり、もしも彼が本当に仏陀の再来だとしたら、日本で悩み苦しむ人たちを救うことに四苦八苦するより先に、もっと貧困の厳しい地域で信仰を広めて欲しいと思う。モンゴルでもシエラレオネでもザンビアでもインドネシアでもどこでもいい。日本人よりももっと苦しい状況にいる人たちはたくさんいるはずで、そういう人たちを救って欲しい。このクオリティの映画にこれだけ大規模な予算を投じるのであれば、その資金をもっと別のことに使って欲しい。
 そしてどうせ映画を作るのであれば、「映画の収益の一部を寄付します」とか言わずに、全額寄付するくらいの心の広さを見せて欲しい。本来の仏陀はそれくらい慈悲深いものだと思う。


(制作:日本/品川プリンスシネマにて鑑賞)

| 映画 ☆☆ | 15:38 | comments:3 | trackbacks:2 | TOP↑

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『あの日、欲望の大地で』(ギシェルモ・アリアガ監督/08年)

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重層的に抉り出される人間の本質
悲劇的な運命との対峙と愛欲のゆくえ


 ニューメキシコにて。
 荒野で燃え上がるトラクターハウス。中からは男女の遺体が見つかった。2人はセックスの最中だったらしく遺体はひとつに繋がったまま焼かれており、警察は局部をナイフで切って2人を離した。それはお互いに家庭を持つ既婚者同士が逢瀬の場所として使っていたトラクターだった。
 
 ポートランドにて。
 高級レストランでマネージャーを勤める容姿端麗な女性、シルヴィア。特定の恋人はおらず、今は妻子ある男を頻繁に家に誘いセックスをしている。「気が向けば誰とでも寝る女なのか」と叱責されても男を誘うことを辞めない彼女のもとに、見知らぬメキシコ人が現れる。


  *  *  *  *  *


『アモーレス・ぺロス』(99年)『21グラム』(03年)『バベル』(06年)の脚本家であるギシェルモ・アリアガが初めて自らメガホンを取った監督デビュー作。
 物語はポートランド、ニューメキシコ、メキシコの3つの舞台と2つの年代が平行して進む。無駄な説明は排除され、登場人物や年代についても明確な描写はない。過去の作品群の多くと同じ作りである。
『バベル』はほぼ同時進行していた複数の物語だったために物語が寸断されていてもまだ分かりやすかったが、この作品では過去も現在もバラバラに並べているため、『21グラム』と同じような難しさがあることは鑑賞前に知っておいた方がいいだろう。
 だが別々の物語が少しずつ紡がれ事実が徐々に浮かび上がるストーリーテリングだからこそ、ミステリアスな展開と緊張感が劇的に高まる。アリアガ監督のお家芸とも言える演出だが、相変わらず抜群に冴えている。

 アリアガ監督がなぜこの手法にこだわり続けるかは定かではないが、描き続けているテーマは一貫している。それは「過酷な運命との対峙」だ。『アモーレス・ペロス』と『21グラム』ではひとつの交通事故が運命の岐路だったし、『バベル』では一発の銃弾がそうだった。今作ではトラクターの爆発事故がその岐路に当たる。

 物語の中では様々な愛と欲望が描かれ、登場人物はみな人生の岐路で重大な選択を下したことにより、その後の人生の歯車を大きく動かすことになる。その選択は時にコイントスで選んだような些細なものだし、時には自分の存在意義や価値観を賭けた重大な選択だったりもする。
 
 そして「選択」や「運命」を通して描かれるのは、愛や苦難や痛みを抱えながらも人生にどう立ち向かうかという、人間が生きることの本質である。
 恐怖や苦難が目の前にあれば、逃げ出してしまうのも人間。いけないことだと分かっていても大切な人を裏切ってしまうのも人間。だが、過去の罪や深い傷と向き合い、それに立ち向かい償うことが出来るのも人間だからこそだ。
 
 2人の女性を軸にいくつものストーリーを重層的に語ることによって、普遍的なテーマを深く抉り出している上質なヒューマンドラマだ。


  *  *  *  *  *


 ちなみに公式サイトやトレーラーですら物語の中核にあたる部分をネタバレしているので、出来れば一切の前情報を仕入れずに観に行くことをオススメします。トレーラーを観ただけで、バラバラに寸断して繋いだギシェルモ監督のお家芸がほぼ無意味になってしまっているというのいかがなものか。

 余談だけど、邦題のこのセンスもちょっとどうだろう。原題が『The Burning Plain』(直訳すると”燃える平野”)なのでどう意訳するかの問題だったのだろうが、「欲望」なんていうわざとらしいキーワードを邦題に入れるくらいなら、いっそ原題ママのほうが良かったのではないかと思う。まぁそれも、映画で描かれていたのと同じように「重大な選択」だったんでしょう。




【ここからネタバレを含みます】

 劇中で描かれる「岐路」と「選択」は、どれもが一貫して悲劇的なほうへと転がって行く。どの選択も正しいものではなかったゆえの悲劇だが、決して間違っていたとは言えないものだからこそ、その悲しさはさらに募るのだろう。 

 例えばジーナは結果として家族を裏切ってしまうが、肉体的に夫に愛してもらえないという痛みは、まさに胸に出来た傷と同じように心に深く突き刺さっていたのだろう。彼女の選択をとがめることはあまりに心苦しい。
 ジーナの娘マリアーナは、母に家族を(家族だけを)愛して欲しかった。彼女の行動は憎悪ではなく嫉妬からであり、その根幹にあるのはやはり母への愛情だ。だからこそ彼女の胸には深い傷が残ることになる。
 そして彼女は自分の母のように「家族を壊す母」になることを恐れて娘から離れるという選択をする。自らの罪の末に生まれたものが娘であり、娘からの逃亡は罪からの逃亡でもあったのだろう。
 彼女にとって母は愛情溢れる家族よりもセックスが出来る他人の男を選んだと記憶に刻まれており、そのために彼女は、母親が溺れたセックスに自らも溺れようとするのだ。

 しかし過去や罪から逃げ続けた彼女は、ついに現実と対峙することを決意する。
 彼女がなぜ逃げることを諦め、娘と向き合うことを選択したのかという部分においてはもう少し説明がほしいところではあった。彼女が決心に至った決定打がなんだったのかが明かされないため、彼女の選択が少し突然のように思えてしまった。
 ただ、過去にマリアーナは「お祈りをしてから眠りなさい」と諭す母に対してこう反論するのだ。

「祈りじゃ間違いは正せない」
  
 きっと彼女は、娘が現れる前からずっと、数多の男たちに抱かれながら祈り続けてきたのだろう。罪が消えますように、娘が幸せになりますように、と。だが娘が現れたことによって、祈りではなにも変わらなかった自分の中にある傷と痛みに気付いたのだろう。だから彼女は娘を迎えに行った。
 それは何度も願ったのに母がトラクターハウスに通うことをやめず、火をつけるという行動を取ってしまったことと密接にリンクしている。


  *  *  *  *  *


 全体を通して陰鬱で乾いた印象の作品だったが、一筋の希望が垣間見えるラストシーンは感動的で秀逸だった。

「一緒に行く?」というなんてことのない、たった一言のセリフが、シルヴィアにとってどれだけ救いの言葉に聞こえただろう。シルヴィアがこの映画で見せた最初で最後の、しかも本当に微かな笑顔が、それを物語っている。シャーリーズ・セロンのあの一瞬の表情がこの映画を最高なラストに見事に昇華した。
 3人の幸福な姿が浮かんで来るような、鮮やかな幕切れだった。


(制作:アメリカ/銀座テアトルシネマにて鑑賞)

| 映画 ☆☆☆☆ | 02:42 | comments:0 | trackbacks:1 | TOP↑

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『おと・な・り』(熊澤尚人監督/09年)

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久しぶりに映画館で観たガッカリムービー
いちばんの見所は間違いなくエンドロール!!


 もともと興味のない作品だったのだが、名画座で同時上映していた『重力ピエロ』のついでに鑑賞した。主演が岡田准一と麻生久美子、監督が熊澤尚人なのでそれだけで大抵の内容はなんとなく想像していたのだが、まず一言で言い切ってしまうと、「この内容で120分はあまりにも長過ぎる」ということだ。

 物語は聡(岡田准一)と七緒(麻生久美子)の2人が、それぞれに仕事や私生活での困難に直面して成長していくというありがちなものだが、2人は古いアパートで隣に住んでいる住人。しかもお互いの生活音が面白いくらい筒抜けという設定だ。

 この設定が終盤でロマンチックに生きて来るのだが、いかんせんそこまでが冗長すぎた。色々な展開を詰め込んで登場人物を立たせようとした結果、結局のところ全てが中途半端でなにも印象に残らない。中途半端にラブストーリーで、中途半端にファンタジーで、中途半端な人間ドラマで誰にも感情移入できない。そして全ての設定や展開に現実味がないためそれらにまるで説得力がない。


  *  *  *  *  *


 まず、劇中で氷室(岡田義徳)が言った「基調音」。この映画はメインコピー(『初めて好きになったのは、あなたが生きている音でした』)からも分かるように音が重要な要素となっているのは明らかだし、タイトルも「お隣」という意味だけでなく「音」という意味も絡めてあったのだろう。七緒が帰宅した時になる音、聡がコーヒー豆を挽く音など、”普段は気にしていないが心地よい音”が多く登場する。
 が、音をメインにしたいならもっとやり方があったはずだし、映画の中で実は全然音が際立っていないのは致命的だ。確かに2人は毎日聞こえてくるお互いの生活音で淡く繋がっていたかもしれないし、遠く離れた故郷で同じ音を聞いてお互いの存在を気付きかけた。でも気付かなかった。最終的に2人を繋いだのは一枚の写真であり、2人の出会いに音は全く関わっていない。

 さらに設定の不可解さも気になる。だって、お隣さんの顔を一回も見たこと無い、名前すら知らないなんてあり得ないじゃないか。表札が汚れて見えなかった……ということで説明したと思っているみたいだけど、電話の声が聞こえてるんだから「はい○○です」って名乗ることくらいあるはずだ。
 コンビニ勤めの氷室の正体が分かるシークエンスでも、なぜ七緒のもとにあの小説が届くのか全く理解できない。担当の編集が確認のために七緒のもとに持ってきた……ってことにしたいのかもしれないけれど、作者である氷室がわざわざ実在の人物であることとその人の所在まで編集者に伝える必要性がまったくない。そして仮にそれを編集者が知ったとしても、わざわざ本人の所に訪ねにくるなんてことは絶対にない。これは明らかな説明不足で予定調和だ。

 設定だけでなく、劇中で重要な脇役たちが語る言葉にもとても違和感を覚えた。例えば由加里(市川実和子)が聡に言う「いい加減辞めたら。人のせいにして自分を許すの」。
 この言葉は「人(シンゴ)のためという言い訳で自分のやりたいこと(カナダ行き)を我慢するのを辞めれば?」という意味だろうと思われるが、こんな説教をされるほどに聡の決断は間違っているだろうか?
 聡が所属しているあの事務所の稼ぎ頭がシンゴであることは明らかで、あの事務所の規模を考えれば稼ぎ頭の引退は事務所が傾くことに限りなく近いはずだ。だとすれば、聡の決断は自分を表舞台に押し上げてくれた事務所や社長を思ってのこと。
 さらにシンゴは聡の行動には一切関係なくすでに引退を決めていた訳で(中盤まで引っ張っておいた失踪の理由が「実家に帰っていた」っていうのも酷い)、だとしたらなおさら聡が出版の話を蹴る理由が無い。出版の目処を立てて出版社の支援を受けて撮影に望むのと、全くのノープランで費用は自腹の撮影だったら、どう考えたって前者のほうが好条件だ。
「自分の力でチャンスを掴みます」と聡は社長に言う。このセリフはとても格好よいセリフのように響くけれど、本当はあまりに現実離れしていて理想主義すぎる展開だ。
 聡の「超人気モデル・シンゴを撮っていたカメラマン」という看板は今さらどんなに頑張ったって簡単に消せるものではないし、消す必要のないものだ。そんなに実力を示したいのなら、既に決まっていた出版予定の写真集で実力を発揮すればいいわけで、わざわざ白紙に戻す必要なんてない。


  *  *  *  *  *


 珍しく思いっきりダメ出しばかりしてしまったけど、岡田准一か麻生久美子の熱狂的なファンだったら十分に鑑賞しうる映画だとは思う。静かな展開や爽やかな空気感の演出、部屋の内装の美術などそれなりに楽しめる要素もある。

 特に、終盤で七緒と聡の関係性をああいう風に着地させたことには驚いたし、上手な持って行き方だった思う。壁越しに聞こえる七緒の声がいつもと違うことに気がつくシーンには感動もさせられた(でも一緒に唄った瞬間に一気にシラけた)。さらにエンドロールは「音」にこだわっていた(らしい)本作ならではの面白い演出だった。むしろこの映画でいちばん良かったのはこのエンドロールだったかもしれない。


  *  *  *  *

 
 ここでちゃんと書き記してみて分かったのだが、やっぱり物語全体の話の筋が瓦解してしまっている。たくさん詰め込んだエピソードのどれもがひとりよがりで、登場人物を成長させる為の出来レースでしかなかったのだろう。
 設定や着地点はとても面白い物語だったので、70分〜90分くらいでまとめていたらかなりいい作品になっていた気がする。「運命の人は気付かぬうちにそばにいる」ということを「隣人」「筒抜けの部屋」「音」くらいのキーワードだけで描いていれば分かりやすくてそこそこ斬新な物語だったはずなのに……。

 映画館で120分をあんなに長いと思ったのも、なんの感傷も湧いてこなかったのも本当に久しぶりだ。繰り返すけど、どうにもこうにも120分は長過ぎた。
 ここにちゃんと感想を書いた作品としては本当に過去に例がないくらいに酷評してしまったのだけれど、多分普段はそれだけ観る映画をちゃんと自分好みのものに限定して選んでいるってことなんだろう。『重力ピエロ』と同時上映じゃなかったら一生観なかった作品だと思うし。

 ところで、プロカメラマンでソニー使っている人っているんだろうか。


(制作:日本/目黒シネマにて鑑賞)

| 映画 ☆☆ | 03:27 | comments:0 | trackbacks:2 | TOP↑

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『空気人形』(是枝裕和監督/09年)

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空虚でも切なくても生きていくことが人生
心を持ったダッチワイフと人間たちの悲喜劇


 まず最初に、この映画は何よりも主演でタイトル通り「空気人形」を演じたペ・ドゥナが素晴らしかったことを書いておかないといけない。彼女なしにはこの作品はあり得なかったであろうことを触れてからではないと何も始まらない気がする。
 それからまだ作品を観ていない人は、一緒に観に行く相手をちゃんと考えた方がいい。間違っても始めてのデートで選んではいけない類いの映画だ。なにせ主役がダッチワイフで、オナホールを丹念に洗うシーンなんかもある。映画館のスクリーンでオナホールを観たのなんて始めてだ。

 ちなみにこれは完全に余談になるのだけれど、僕は以前コンビニで売っているエロ本の編集をしていたことがあって、エロ本に載せる際でもオナホールの局部にはちょっとボカシやモザイクを入れたりしていた(いくら玩具でも女性器は女性器だ! ということらしい)。でも映画は問題ないんだなぁ……なんてところに一番驚いてしまった。日本って不思議だ。


  *  *  *  *  *


 古いアパートに一人で暮らし、ファミレスで働くしがない中年男・秀雄(板尾創路)の恋人はダッチワイフ=空気人形。だがある日、そのダッチワイフが「心」を持ってしまう。空気人形は秀雄が仕事に出かけている昼の間、ひとりで街を出歩いて人間同じような生活を楽しむ。

 ひとりで淡々と人形に話しかける秀雄の情けなさや、たどたどしい歩き方と口調で昼の生活を楽しむ人形の姿など、序盤は気を抜いて微笑ましく観ることができるシーンが多い。バイト先の先輩・順一(=ARATA)に恋をした人形が化粧を覚え、自分の体にあるシリコン(ビニール?)のつなぎ目をコンシーラーで消すシークエンスなどは単純にコミカルでキュートで面白い。ここまでは和やかなムード漂う、普通のファンタジックコメディだ。

 だけれど彼女は秀雄が所有する人形であって、夜は家に帰って秀雄の相手をしなければならない。心を持ち、順一に惹かれているのに秀雄に抱かれなければならない運命から彼女は逃れることが出来ないのだ。
 彼女は自分が心を持った人形として生きることの空虚さに気付き、存在意義に疑問を感じてしまう。
 
 では、彼女が心を持ったことは不幸だったのか? 

 物語の中ではOLの美希(星野真里)や交番勤務の警官・轟(寺島進)や交番に通う老人の千代子(富司純子)など、同じ街に暮らす様々な人物が登場する。彼らは見た目はいたって普通の満たされた大人だ。だが美希は家に帰ると過食と嘔吐を繰り返し、轟は警官の汚職が描かれた映画ばかりを好んで鑑賞し、千代子は全国で凶悪犯罪が起こるたびに「あの事件の犯人は私よ」と轟に名乗り出る。

 それら登場人物たちがなぜそのような行動を取るのかという背景はあまり描かれない。しかし彼らが示すのは、人間も多くは日々に悩み、苦しみ、葛藤と迷いと抱えながら生きていて、必ずしも幸福に生きていられるわけではないということだ。空虚な毎日に、自分が空っぽだと思うことも多い。心を持った人形は「私の中には何もない、ただの空っぽ」と順一に打ち明けるが、心を持って生まれた人間だって同じくらい空虚で空っぽなのだ。


  *  *  *  *  * 


 しかし、人間が人形と変わらないほどに空虚な存在であるならば、生きる意味などどこにあるのだろう? それに答えるのが、公園で黄昏れていた老人(高橋昌也)だ。彼は吉野弘の詩『生命とは』を人形に教える。これは老人が人形に、そして是枝監督が観客に向けて「生きることの意味」を伝えるシーンであり、『空気人形』の物語世界ではこの詩が重要な意味を持つことになる。以下に一部を引用するが、素晴らしい詩なのでぜひ全編読んでもらいたい。


 生命は自分自身で完結できないようにつくられているらしい
 花も
 めしべとおしべが揃っているだけでは
 不充分で
 虫や風が訪れて
 めしべとおしべを仲立ちする

 生命はすべて
 そのなかに欠如を抱き
 それを他者から満たしてもらうのだ
 (中略)
 あたなも あるとき
 私のための風だったかもしれない

(『空気人形』公式サイトより抜粋)


  *  *  *  *  *


 ただし、実のところこの『空気人形』で語ろうとしていたことは上の詩で全て事足りてしまっており、この映画は「『生命とは』という詩を心を持ったダッチワイフを通して描いたファンタジー」なのである。
 正直なところ、僕は是枝作品では珍しく観賞後すぐにはイマイチな感覚があった。それは多分、この映画が孕んだ分かりづらさや複雑さによるのだと思う。
 原作がある作品の映画化を拒み続けた是枝監督が「『空気人形』(業田良家の『ゴーダ哲学堂 空気人形』)だけは別格」と、9年前から構成を練っていただけあり相当の思い入れがあったのか、監督の作家性が強くにじみ出ているような作品となっている。
 是枝監督の作品は今まで「ヒューマニズムの探求」「徹底したリアリズムの追求」「ファンタジーの雰囲気」などと同時に「分かりやすさ」も共通してきたキーワードだったと思うのだけれど、その「分かりやすさ」が決定的に抜け落ちているのである。
 しかも心を持った人形のファンタジーという、いかにも「分かりやすそう」な物語なのに、実は全く正反対の映画だという構図も「分かりづらい」感を割り増しにしていたのだと思う。

 物語は序盤のコミカルな雰囲気から、人形が自分の存在意義に疑問を感じた場面からは一転して哲学的な内容となる。さらに人形は存在意義を探すのと同時に順一への恋心を募らせて行き、後半はその想いが致命的にすれ違ってしまうがために、いきなりサイコホラーばりの展開に転がり落ちる。終盤に観られるこの血なまぐさいシーンは「心があるのに中身のない人形」と「中身があるのに心がない人間」という、どちらも「空っぽ」であることが起こした切なすぎる悲劇である。
 本来ならば涙ながらには観れないこのシーンでイマイチ切迫感を感じなかったのは、序盤でさんざん描かれたファンタジーの世界観が邪魔をしていたせいかもしれない。物語はファンタジー的展開に終始しており現実味がなく、だからあの重要なシーンでも人形と順一の痛みや悲しみが、本当の切迫感を伴って響いて来ることがなかった。

 それからもうひとつ。
 たくさんの登場人物たちの背景を描くことなく「悩み苦しむ現状」だけを見せたことも、理解し難い演出のひとつだった。都会に住むたくさんの人々が一様に抱える空虚さを描くためにあえてあの描き方だったのだろうとは思うけれど、その割にはキャストが星野真里や寺島進など存在感が強い俳優が揃っているため、非常にアンバランスさと冗長さを感じてしまった。あの程度の描き方で終始するならば、配役ももっと地味で無名な俳優のほうが良かったように思う。
 
 前作『歩いても歩いても』(08年)がとことんシンプルで、とことんリアリティーを追求した作品だったせいもあるかもしれないが、この作品ももっと削ぎ落として伝えたいことの根っこがストレートに伝わるような、シンプルな作品にしてほしかった。 
 もの凄く集中して観て何度も咀嚼すれば素晴らしいことをそつなく語る傑作に近い作品かもしれないとは思うのだけれども、いかんせん色々な要素(ファンタジーでコメディーで人間ドラマで、メランコリックに死生観や孤独感や人の悲哀が詰まった悲劇であり喜劇)が詰まり過ぎていて根っこが見えずらくなっている気がするのだ。

 
  *  *  *  *  * 


 批判的な意見を続けてしまったけれど、僕は『ワンダフルライフ』(99年)で衝撃を受けて以来の是枝ファンだ。それ故細かいところまで必要以上に気になってしまっているのかもしれない。
 ただ、『ワンダフルライフ』と『誰も知らない』(01年)の間に、複雑なテーマを複雑に描いた『DISTANCE』(03年)があり、『誰も知らない』と『歩いても歩いても』の間に実は普通の時代劇だった『花よりもなほ』(06年)があった。だから今回も、数年後に誕生するであろう新たな傑作への踏み台となった佳作になることを本当に期待している。

 またこの映画のすごい部分を(ペ・ドゥナの人形具合の他に)挙げておくと、すでに海外での評価が高い是枝監督なのに世界の舞台への下心がまるで見えないことがある。
 例えば前半、板尾創路演じる秀雄が風呂場で空気人形と一緒にお風呂に入りながら「今日はTUBAKI買ったんや。やっぱ高いだけあって、ええ匂いやな」と話しかけるシーンがある。これはたかがダッチワイフに「最近の女子に大人気だけどちょっと高いTUBAKI」を買っている男の悲哀と痛々しさがにじみ出るコミカルで重要なシーンなのだけれど、TUBAKIを知らない外国人には通じずらいシーンだろう。
 逆に言えば「ちゃんと日本人に伝わる演出」に全力をつぎ込んでいるということでもある。日本人に認められてもいないのに外国向けにベタべタな笑いに終始した『しんぼる』(09年)とはえらい違いである。


  *  *  *  *  *


『空気人形』は人の一生とは切り離すことのできない孤独感や、生きることと死ぬことの意味を描いた作品で、ヒューマニズムの探求を続ける是枝監督らしい作品だ。映像美も素晴らしく、ただの人形から心を持った人形へと変わる冒頭のシーンなど、目を引きつけられるショットが多かった。舞台となった街を流れる隅田川のように、ゆっくりと流れるようなカメラワークが印象的だった。
 中盤で観られる、人形が空気を吹き込まれるシーンの色気は他の映画のセックスシーンを遥かに凌いでいた。直接的なセックスではないのに、悲しみや恥ずかしさや好きな人で満たされてく喜びなど様々な感情が交錯した、紛れも無く邦画の歴史に残る官能的なセックスシーンだろう。

 この映画で描かれる人形の空虚さは人間の空虚さで、人間の切なさは人形の切なさ。人形が誰かに空気を入れてもらうことでしか生きられないように、人間も誰とも関わらずには生きられない。

 そんなに空虚で切なく無力な人生に、生きる意味はあるのだろうか?
 生きる意味は一生かかっても分からないかもしれないけれど、しかし生きること自体に意味があるとすれば。
 タンポポが風に揺られることで種を飛ばせるように、生きて誰かと関わることで自分が誰かの風になっているとしたら。

 生きて行くことにささやかな温もりを与えてくれる寓話だ。


(製作:日本/シネマライズにて鑑賞)

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